2013年11月5日火曜日

こおりやま音楽祭「楽」

明けて11月4日、我々のライブ本番である。
昨夜はお酒で眠くなり、少し早目に自室に切り上げたので、お酒も残らず睡眠時間もたっぷりとって爽やかな起床。

ホテルで無料のパンと紅茶、ゆで卵を食べて10時半に会場に向けて出発。
「郡山城ホール」はナビ検索で一発OK。

慣れたもので、勝手に楽屋を探して入室。鍵は内部にちゃんと置いてあった。
去年より広い部屋だ。
11時半頃からのリハーサルを前に少し声出し練習。
皆やはり声は出ない。
それぞれがストレッチをしながら、身体を覚醒させている。
我々の今日の出番の前後はプロだ。
昨夜、吉岡委員長が言っていた「東京からも」というのは、この人達かな?
それぞれ、関西出身のようだ。
あらゆるコネクションを使って出演者を集めているらしい。

我々のリハーサルの前は「ヤナキク」という女の子二人組。バックの演奏はカラオケを使うようだ。
唄い方や振りが、昔の「ウィンク」を思わせる。「パクパクキンギョ」という歌が面白い。
これが金魚で有名な大和郡山との縁だったのかもしれない。 
プロらしく演出に細かなこだわりを見せている。

さあ、我々のリハーサルの開始だ。
モニターの返しも程良い感じ。
大きな会場の場合、案外ドラムスの音が聴こえなくなるが、それも注文してスネヤの返しを上げて貰って良い感じに・・・・問題はこれが本番でどうなるか?だ。
沢山のバンドが出入りする訳で、それぞれの演奏者の注文を完璧にリハ通りに再現できるとは思えない。
それでも、大きなホールで演奏できるのは気持ち良いものだ。
ひょっとして、この体験に味をしめているから、アゴ・アシ自己負担無報酬でわざわざ名古屋からはせ参じているのかもしれない。

しかし、今一つできが良くない。
阿修羅像を観に興福寺に行くか?筒井から案外近い法隆寺に行こうか?と個人的には思っていたが、この出来で本番を控えてどうも気持ちが落着かない。観光旅行は諦めた方が良さそうだ。

昼食を摂りに外に出る。
隣のバスパークも屋外の会場になっている。
昔っぽいフォークのサウンド聴こえて来たので、近寄ってみたらやはりオジサン達だった。
今時、アコギだけガチャガチャ演ってるのは大抵オジサンしか居ない。
市役所の南側も会場になっている。ここは若い人が唄っていた。若い人のバンドには最低限Dr,EG,EBは入っている。
駅前に行っても、食べる所が無い!
昨夜飲んだお店はお昼は営業していない。仕方なく駅の近くの食堂で親子丼650円也。
味は「う~ん!?」ってとこ。
どうやら京都のI君も既に会場に来ているらしい。

我々も会場に戻って、I君と合流。一緒にレセプション・ホールを覗いてみる。
やはりオジサンのバンドだ。
しかし一曲目が「吾亦紅」
えっ?って感じ。
ま、一曲ぐらいは許そうか?と思っていたら、二曲目がアリスの「チャンピオン」。
続いてジュリーの歌をどうしたこうした・・・・・?
カラオケボックスでやってくんない?勘弁してくれっ!
私は電子書籍を取出して読み始めた。他のメンバーも目をつむって「寝られれば寝るぞ」という体制を整えている。 
次のバンドもちょっと許容範囲外ということで、失礼ながら退散させて頂いた。
そう、そう!楽屋に戻って練習しなくては!

午前中よりは少しマシになっている。

昨夜飲み屋で御一緒だったスタッフの女性は、今日ゴスペル・コーラスで出演するので、その本番を拝見させて頂くことにした。
我々と同じ小ホールのステージだ。
客席には行ってみると、観客が少ない。
先刻ロビーで長蛇の行列を見かけたのだが、それは高校のマーチングバンドの出演で、家族・学校関係者が総動員されて応援に駆け付けていたようだ。
そういう観客はその演奏が終われば、汐が引くように去って行く。
定番「Oh! Happy Day」では、我々のバンドメンバーは立ち上がって応援した。
気持ちは通じたかな?
今日は天気も良く、客足も良いと思っていたのだが、意外と集客は難しかったのかもしれない。
出演者の割に観客数が少なく感じてしまう。
もちろん、我々のライブでも観客動員は難しいのだから、これほどの規模になると大変なのだろう。
観客動員は今後の課題かも?

楽屋に戻って最後の練習をした後は、着替えをして本番を待つ。
I君にはビデオ撮影をお願いした。




Tさん、お腹がヤバイぞ!

いよいよ、出番だ。
ドラムス、アンプ、マイク全てセッティングし直しだから時間がかかる。
我々の楽器はスムースにセッティングし終わったが業者さんの仕事が遅れがちになる。
スタートが遅くなるのは予測できていたので、MCは殆どせずに演奏を続けていく事に決めてある。
モニターの感じはやはりリハと全く違う。でも、仕方ない。Go!!

まあまあの滑り出し?
私の目の前にタイムキーパーの女の子が陣取っていたが、我々の演奏に合わせて口が動いていた。若いのにBeachBoysを知っているのか?
その娘が「Wendy」の途中で「あと10分」という紙を掲げた。
この曲が終わればあと二曲。
私はその娘に”大丈夫!”というアイコンタクトをし、彼女も納得してくれた。
「Help Me Rhonda」が終わった時に「あと5分」。JUSTだ。
最後の「Surfin USA」のイントロが始まると彼女も安心した顔を見せた。何せ3分以内の曲が殆どだからねぇ!
そうして、我々は楽勝時間通りに演奏を終えた。
昨夜観た、酔いどれ不良やさぐれオヤジバンドにくらべて、我々は何と上品で管理の行き届いた優等生バンドなのだろう?
ま、これも持ち味というべきか。

撤収して楽器を車に積み込み会場を後にしたのは19時を回っていた。
案の定、亀山から四日市まで渋滞だ。連休最終日なのだから覚悟の上。
K君を自宅前まで送って、自宅にたどり着いたのは23時に近い頃だった。
疲れていたのか、24時には熟睡していた。 


2013年11月3日日曜日

11月3日 ライブ前泊

大和郡山市の音楽祭「楽」への出演は今回で三年連続、三回目になる。
四年前の志摩ヨットクラブのクリスマス・パーティーで演奏したことがご縁で、それ以降毎年誘われている。

今回は初めての泊まりがけだ。
誰が言い出したかは定かではないのだが「合宿」という言葉に惹かれた。
宿泊施設は直ぐに大和郡山市内に手配して貰った(勿論、自己負担である)のだが、練習スタジオが見つからない。
奈良市内、天理市とその検索範囲を広げてみても条件に叶うスタジオが無いのだ。
狭かったり、ドラムが置いてなかったり、アンプが置いてなかったり…また、全般的に時間単価が高いとのこと。名古屋市内の約二倍もするそうな。
奈良県の若者はロックしないの?

ただし言っておかなければいけないのは、この音楽祭の出演者のレベルが非常に高いという事だ。
特に際立つのは管楽器。
筆頭は何と言っても創価高校のマーチングバンドだろう。金管楽器の迫力と一糸乱れぬ行進の動きは、其処に居る者を圧倒する。
そんな伝統が影響しているのか、昨年観た女性だけのサキソフォン・バンドの演奏も素晴らしかった。そのなかの一人はプロになるべく上京すると言っていたが、その後はどうなったのだろう?
そんなレベルの高い音楽祭から、何故我々に声が掛かるのかは今もって解らない。

結局、今日はいつも使っている名古屋のスタジオで練習して、その後、大和郡山に移動しホテルにチェックインした後は宴会。
明日は午前中にリハーサル。本番は夕方6時という段取り。
小ホールのトリと言えば聞こえは良いが、演奏を終え着替えを済ませれば19時。
そこから連休最終日に名古屋に向けて車を走らせるのだから、しんどい事には間違いない!
さて、予定通りに練習を終えた私達は名古屋高速に乗り、一路大和郡山へ…
17:30にホテルにチェックインし、明日のライブ会場である「郡山城ホール」に向かう。

実行委員長の吉岡さんに挨拶をして、我々はレセプションホールでライブを観た。
若い人達によるロカビリー・バンドに続いて、60年代オールデイズバンド。リーダーの酔いどれやさぐれぶりに、いささか辟易。
今日のライブのトリは、またまたロカビリー・バンドだ。全員がリーゼントもしくはハンチングといういでたちもさることながら、演奏も大したものだった。
特にベースは高評価。ウッドベースながらしっかりしたアタック音を出しており、ドラムと共にリズムを支える。
リードギターはリバーブの効いた音をフィンガリングで奏でる。
途中参加のサックスも非常に上手く、会場のあちらこちらで踊り出している。
このバンドは本当に聴いて得したという気にさせてくれた。

演奏が終わった後は吉岡さんと共に居酒屋『一心』に行き、他のスタッフ等と合流した。料理も美味しく、焼酎のお湯割に大葉と唐辛子を入れて飲むという独特な飲物も気に入った。その様子から『金魚』というらしい。話によれば今の市長のまがままからできた産物とのこと。
近鉄電車で一駅南の「筒井」に戻った。駅名はやはり筒井順慶から来ているようだ。先程のホールの近くには平城京の羅城門があったとされるように、此処はなかなか歴史的な街だ。今残っているのは城跡くらいしかないが、スタッフの話からこの街に誇りを持っていることは伝わって来た。

明日は10時前にホテルを出発。
京都から同期のI君が聴きに来てくれるらしい。

近鉄電車に乗って筒井に帰る、飲んだくれオジサン7人です。

2013年10月27日日曜日

トホホ・・・の週末

実にトホホ・・・・である。

木曜日の夜から、My PCはどこか妙だったのだ。
インターネットは問題ないのだが、ローカル・ファイルへのアクセスがやたら遅い。
そのうちには、待てど暮らせど帰ってこない。

タスクマネージャーを立ち上げて、余計な処理を行っているかをチェックしてみた。
そうしたら、セキュリティ・プログラムの「マカフィー」がスキャンしている。
そのせいで、CPUには100%近くの負荷がかかり、Diskは回りっぱなし。
マカフィーのスキャンは木曜日の午前4時に設定しているので、こんな時間にスキャンしていること自体が異常だ。
終わらせてもマカフィーは終わらない。一心不乱である。
シャットダウンも何のその!

でも翌日は仕事だしなぁ、ということで、無理やりスイッチ長押しで電源を切り就寝。

金曜日に帰宅して電源を入れてみると、「Windowsを起動しています」まで出たのだが、その後再びブートして、今度はWindowsの起動までも来ない。
HPのユーティリティが自動的に立ち上がって来た。
そのプログラムでハードウェアをチェックすることにしたのだが、Diskのチェックにはやたらと時間がかかるのだ。
無理もない、1TBのハードディスクのスキャンテストなのだから・・・・・Diskが大きくなるのは便利なのだが、回転スピードは昔と大して変わってはいないのだから、こうした異常処理は容量に比例して時間を要する。
結局、その夜はスキャンテストで終わってしまった。
結果は「異常なし」。
だろうな・・・とは思っていたが、翌日はバンド練習なので、とにかく寝ることとした。

翌朝、電源を入れてみるとやはり、Windowに起動まで行かず、HPのユーティリティ(リカバリー・マネージャだったけ?)が立ち上がる。トホホ・・・・
しかし、そのメニューの中に「データのバックアップ」というのがあった。
私は小躍りした。
きっと、Windowsは起動しなくてもデータファイルは救ってくれるんじゃない?と思った訳である。
私は、それを選択してDVD8枚を費やしてファイルのバックアップを作った。
「さあ、これで安心だ!」と、バンド練習に出かけたのだ。

しかし、やはり気になっていた私は、練習後の飲み会に参加せず、家路を急いだ。

「データのバックアップが取れているんだから、あとは時間との格闘だけだね」とタカをくくっていたのだが、その期待は程なく裏切られた。
Diskを初期化してWindowsのリカバリー・ファイルからWindowsは簡単に復旧でき、くだんのバックアップファイルを戻してみると、「なに、これ?」状態ではないか!
特定のフォルダを勝手に作り、そこにデータを戻しておいたから、あとは自分で好きな場所に戻しなさいね、という感じだ。それはそれで良いとしても問題は中身である。
一言で言えば、「歯抜け」状態だ。

しかし、マメにバックアップしていない私が悪いことは確かだし、本体のDiskは初期化してしまったのだから諦めるしかない。

腹を括って、地道に行くしかない!
ソフトはインストールするとして、データファイルの復元元は
(1)くだんのバックアップファイル
(2)今年の春頃に外付けDiskにバックアップしたもの
(3)今年の夏に無料クライドサービス「Nドライブ」にコピーしたもの
以上、3つしかない。しかしバックアップされている対象が同じとは限らないから話は複雑になる。
これらを比較しながら、抜けがないか?どれが最新のものか?
少しずつ戻していくが、その確認に必要なソフトはその都度インストールをする。
コピーに時間が掛かる時には本を読んで気を紛らわす。

結局作業が一区切りついたのは今日の夕方。
最新の写真ファイル(先月のイタリア旅行のもの)はまだSDカードに残しておいたので助かった!
これが無くなっていると、恐らく妻からの風当たりは相当強かっただろうことは予想に難くない。
音楽ファイルは殆どスマホと同期が取れていたので、スマホのMicroSDから戻した。
楽譜ファイルに関して、一曲救えなかったが、PDFをメールでメンバーに送った時のものがGmail上に残っているので、まあ、それも良し!
後は、必要に応じて、必要なソフトを都度インストールしていけば良い。

今から思えば、Diskを外して他の部屋にあるPCにUSBで繋いげば、データファイルは全部救えたのだと思う。焦っていたとは言え、判断ミスは否めない。
しかし負け惜しみのようだが、PCの中の掃除ができたと考えようと思う。
聴く時間のあての無い、ラジオ番組の録音は全滅したけど、私が一日にそれらを聴く時間より、圧倒的に録音している時間が長いのだから、いつかは破綻していたのだ。そう思えば、諦める良いきっかけになったのだろう。

しかし、バックアップ問題は大きい問題だ。
私の仕事でも顧客がサーバーのデータを深夜バックアップしていたら、朝出社してもそのバックアップが終わってなかったという事例もあり、今後ますますデータファイルは大きくなりDiskもそれに応えるように容量は大きくなるだろうが、このバックアップ問題は深刻だ。
個人のPCでも、音楽・画像・映像のデータは大きくなる一方。
カメラの性能が上がるということは、すなわちファイルが大きくなる、ということを意味する。
などと言って自分の無用心さを棚に上げるつもりは無い。
やはり、いろいろな手段を使って、マメにバックアップはしないといけない。
PCは壊れる。実に簡単に壊れるモノだから。

それにしても、まだまだWindowsのUpdateは果てしなく動いている。
それが終わると、今日何度目の再起動になるのだろう・・・・?






2013年10月6日日曜日

オーストリアと私

音楽好きな人間同士は、時々「音楽の原点は何だ」ということを話題にする。
私の場合、それは「ウィーン少年合唱団」だと応えるだろう。

それは小学校4年生の時『美しき青くドナウ』という映画を観た時から突然始まった。
確か、ディズニー配給だったと思う。

美声のトニー少年が新しく入団する。
年上の少年ピーターはいつも主役級であるが、新たなトニー少年の出現が面白くない。
ピーターは美声のトニーへの嫉妬心から嫌がらせをする。
このピーター少年が変声期を迎える事からドラマは急展開。
声変わりは退団を意味するのだ。
しかし、トニー少年達の訴えもあり、ピーター少年は公演会で「美しく青きドナウ」でタクトを振ることになった。
そしてこの曲でエンディング…だったと思う。

私はドラマの展開にハラハラドキドキしながらも、同世代の少年達の美声にすっかり魅了されてしまった。
私もその頃は変声期前で、高い声には自信があったので、映画を観て家に帰った後も両親に「どうしたらウィーン少年合唱団に入れるの?」と質問し困らせたものだ。

少なくとも、私が最初に買って貰ったLPレコードはウィーン少年合唱団の作品だった。
その中にシュトラウス「美しく青きドナウ」が入っていたのは言うまでもない。
それ以外にもシューベルトの歌曲を合唱に編曲したものが数多く入っていた。
ドイツ語の歌詞は全く分からなかったが、メロディーは直ぐに覚え、私は彼らと一緒に何度となく歌っていた。

この次に強烈なインパクトを残したのは中学に入ってからの「サウンド・オブ・ミュージック」だった。
アルプスの山々がシネラマ・スクリーンいっぱいに広がり、それが徐々にズームしやがてはテーマ曲を高々と歌うジュリー・アンドリュースに迫る。
初めて見る美しいアルプスの山々、ホルンから始まる少し控え目なオーケストラの音、突然ジュリー・アンドリュースの伸びやかな声が重なる。このシーンだけで、私の心は鷲掴みにされていた。
もちろん、即刻LPレコードを買って何度も聴いた。英語の歌詞も多少は理解できるようになった私は、歌詞カードに首っ引きになりレコードに合わせ歌った。
また、舞台となったザルツブルクにも憧れて、いつかはきっとザルツブルクに行く、と思っていた。
つまり、私の音楽の深い所にオーストリアは関わっていたのだ。

しかしその後、私はグループサウンズやロックに夢中になり、いつしかそんなオーストリアへの夢を忘れてしまっていた。

しかし、そのオーストリアから今朝未明、メールが来た。

先日のイタリア旅行最終日にローマのレストランで隣り合ったオーストリア人母子の母親からだ。
私は彼らに写真を送ることを約束していたので、旅行から帰って数日後メールに写真を添付して送ったのだが、それに先立って彼等の住んでいるEbensee(エーベンゼー)の街を調べてみた。
それはまるで絵葉書のように美しい山々に囲まれた街であり観光地だったのだ。
が、それに混じって悲惨な画像が現れた。
第二次世界大戦の頃オーストリアがナチス・ドイツに併合され、Ebenseeに強制収容所が建設されたのだ。写真はその時の凄惨な姿を今に伝えていた。
私はその事実を初めて知ったことを伝え、日本にもその大戦では多くの悲惨な歴史を持っていることを伝えた。そして私達が平和な時代に知り合えた幸福を伝えた。

彼女からのメールは、一緒に話が出来たことの喜びと、写真を見ながらあの旅行のことを、そして我々と出会って話をしたことを二人で思い出している、と綿々と書かれてあった。
私の脳裏には母子が仲良くPCの画面を見ながら、思い出話をしている姿が浮かんできた。
あの二人にとっても素晴らしいイタリア旅行であったに違いない。

映画の「サウンド・オブ・ミュージック」は、一家が国境を越えてオーストリアを脱出する場面でエンディングとなっているが、実際のトラップ家は、渡米した後にも大変苦労をしている。
しかし、脱出していない多くのオーストリア人が、トラップ一家とは比較にならないほどの悲惨な体験をせざるを得なかった事を考えると、山々や湖の綺麗な景色も、単純に感動してはいられない気がしてくる。

Ebenseeでは既に木々が色づき始めているという。
彼女はこんな季節に山歩きをすることが一番好きなのだそうだ。

いつの日かザルツブルグを・・・という夢をもう一度復活させるのも本当に悪くない。


友からの便り

彼の名は「山田さん」。
しかし、彼の苗字が山田という訳ではない。

大学時代のサークル仲間のなかには、本名を連想させないニックネームを持つ友人が三人居た。
私が「ヒロ」と呼ばれることなど、即刻本名が連想できる、実にとるに足らないニックネームだ。

一人は、哲学専攻だったから「哲人」。これは比較的分かり易い。

二人目は、少しややこしい。
入部からほどない頃、サークル主催のコンサートの準備をしていた。
私達新入生が広報用の立て看板を作っている時、台に登って上の方を担当していた一人がいきなり叫んだ。
「ちょって、ガバリ取ってくれ!」
そこに居た全員の手が止まり、一瞬の沈黙が走った。
しかし、本人はその沈黙を全く感じていない。
「ガバリだってば、ガバリ!」
それ以来、彼はガバリと呼ばれた。

ガバリとは画鋲のことらしい。
「画張り」なのか「画針」なのかは今も不明だか、今も彼はガバリと呼ばれ続け、今も一緒にバンド活動をしている。

そして三人目が真打ち「山田さん」なのだ。
もちろん、立派な苗字は持っているのだが、或る先輩が彼を「山田さん」と命名したのだ。
「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する「山田さん」に似ているというのだ。もちろん妖怪ではなく人間だ。
確かにあの飄々とした雰囲気は似ていなくもない。
とにかく、それ以来、彼は先輩からも「さん付け」で呼ばれることになったのだ。

彼はバンドではドラムを担当していたが、我々が音楽活動に見切りを付けた後も、一緒に登山をしたり、卒業後も一緒にスキーに行ったりもした。
特にスキーの腕前は我々ビギナーとは全く次元の違うレベルであり、脱サラ後、或るスキー場ではあの大女優「吉永小百合」さんのエスコート役を務めたという逸話まで残っている。

その後も彼は自分の進むべき道を模索し、結局一人渡米した後はレストランで働き、現地で家庭を持った。
今はデンバーでアメリカ人として生きている。

水木しげるさんが「ゲゲゲの鬼太郎」の中で『典型的な日本人』として描かれた「山田さん」だったが、私達の「山田さん」はそれとは全く違う生き方を選んだのだ。

メールアドレスも住所も知ってはいたが、余りに生活圏が異なり会う機会も期待できない中、いつしかお互いに音信不通になってしまっていた。

それが、先日突然懐かしくなった私はGoogle+で彼の名前を検索(もちろん本名で)したのだ。
出てきた!出てきた!
しかも、そこには私が知っているデンバーにある彼の住所が記載されていた。
そうなると、余計に懐かしさはこみあげて来るものらしい。
メールを出して、待つこと二日。

彼が決してデジタル型人間ではないことを知っていた私は、返信にもう少し日数がかかることを覚悟していたので、昨日の未明にそれが届いていたことには大いに驚嘆した。

彼も、彼の家族も元気にやっているらしい。
何はともあれ、一安心だ。

この年齢になると、何でもないそんな便りがとても嬉しい。

再会を信じながら、今は”今度はどんな返信を書こうかな?”と考えている。


2013年9月25日水曜日

旅を終えて

12日間に及ぶイタリア旅行を終え、昨日帰国した。

日本は暑い!
日陰でも暑い!
セントレアに降り立った時に最初に思ったことだ。
イタリアは昼間は暑いが、日陰に入れば涼しくて気持ち良い。
朝とか夜は「寒い」と感じていた程だ。
なのに、日本はまだまだ暑い!
それと、日本のお茶は渋い!
ほとんどワイン以外はミネラル・ウォーター(ガス入り)で過ごしていた為、日本のお茶が喉を通らない。こんな渋い物を毎日飲んでいたの?という感じ。
これは直ぐに元通りになるだろうけど・・・・

投稿できなかったブログの原稿は飛行機の中で書いていた。
ネットが繋がらないので、スマホ内部のメモ機能を使った。
飛行機のインターネットサービスがあるとの案内が有ったので日本人CAに尋ねたら、1時間あたり10€程度だという。別にそれでも良いかな?とも思ったが、CAは「それでも中国上空に入るとネットは殆ど繋がりませんので・・・・」と、全く奨める気無しである。中国上空ってかなり長いぞ!
アジア上空がそうなのか、世界中にそんな場所は幾多もあるのか・・・

という訳で、最後のローマでの顛末はセントレアからの投稿となってしまった。
これからも、写真の整理等が進み写真を増やしたり、書ききれなかった事があれば随時加筆修正して更新していくつもりだ。
なにせ、自分の為の「旅日記」であるのだから。

海外旅行でのブログへの投稿は考えていた以上に苦労が多かった。
PCのキーボードならもう少し生産性も上がったのだろうが、スマホやi-Padの入力は時間が掛る。それに、一日中歩きづめで、ワインを飲んで食事をして部屋に帰れば、即爆睡という毎日。
細かい空き時間を利用しての投稿だった。
単に何処何処に行きました、写真はこれです、ならば簡単だのだろうけど、それは私がしたかったことではない。
だから私自身は、少々の無理を押してでもそれをしたことに満足している。
可能な限り、リアルタイムに感じたままを書きたかったから。
その時の空気を描きたかったから。

今回の旅行は、個人で企画して決行したものだが、反省点も大いにあった。
・ 事前の情報収集はもっともっと綿密に
・ 特に鉄道関係は事前に調べられる事は全部調べる
・ 特にローカルに行った場合には、エレベータ/エスカレータの有無が勝負の分かれ目
・ 事前に地図だけでは分らない道路情報(高低差、石畳の状況)をどこまで把握できるか?
・ 曜日は確認しよう!
・ ローカル旅行のあり方を考える
これはつまり、大きな荷物を持って移動することは決して得策では無く、大都市のホテルを確保した上で、日帰り旅行にするのか、最小限の荷物だけで泊るようにするとか・・・
・ インターネットの情報にばかり依存するのはやめて、自分の動物的嗅覚・勘を大事にしよう

そして最大の反省点はもっと英語を、できればイタリア語を磨かなくてはならないと感じた事だった。
前回に比べれば随分喋る事に抵抗は無くなったが、それでももっと喋る事ができれば、旅はもっと楽しいものになるだろう。
今思い返してもオーストリア息子とはもっと色々な話がしたかった。
彼に会いに行く為にも英語はもっと上を目指そう。

それでも、個人旅行は止められない。
少々の不便が有ったとしても、今の私に団体旅行は無理だと思う
気紛れに予定を変更したり、気に入った場所では気の済むまで立ち止まったり・・・・
いつまで、この種の旅行が続けられるか分らないが、死ぬまで続けるつもりで身体と頭の自己研鑽を積んでいく事は、少なくとも人生の目標の一つであると今考えている。

歴史が都市をつくり、都市が歴史をつくる。その交差した所に芸術が生まれる。
だから芸術を知るには歴史を知らねばならない。その都市を知らねばならない。

最後に、今回の旅行、特に美術鑑賞の道標にさせて頂いた「フィレンツェ」を著した美術史家の故若桑みどり先生の御霊に感謝申し上げたい。

2013年9月23日月曜日

9/22 プチ国際交流

UNA HOTELのダイニングはアメリカ人で溢れかえっていた。




やはりホテルの作りからして、アメリカ人好みなのだろう。
食事のバリエーションも豊富である。種類は多くはないが生野菜も置いてある。
スイカはナイフとフォークで食べると案外良いもんだとは始めて知った。


とにかく、疲れを避けるためにゆっくり朝食を摂り、出発もマイペースだ。

なかなかオシャレな部屋の冷蔵庫
フロントに降りていくとチェックアウトする客でごった返している。



今日はサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に行き、近くのレストランのディナーを予約し、フォロ・ロマーノに行く予定だ。
清潔なロビー

ロビーで場所を確認して大変なことに気付いた。予定していたレストランが日曜休みなのだ。迂闊だった。ここは先日、M税理士と情報交換したトラットリアだ。
残念だけど休みなら止むを得ない。ま、どこでも良いか、というヤケクソな気分。

とにかく出発。
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂はホテルから至近距離。歩いて行ける。
前回にも訪れたが、サンピエトロのように人でごった返すこともなく、静かにすごせるこの教会が気に入っていた。
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂

ここは、四つあるバチカン領のうちの一つである。
内部は、それに相応しく、荘厳であることこの上ない。










この真正面に「かいば桶の断片」があります




特に、イエスが産まれて寝たという「かいば桶」の断片が祀ってあり、容器越しにそれを見ることもできる。これには感動を通り越した畏敬の念で胸を打たれざるをえなかった。

ズームインした「かいば桶の断片」
文字まで書かれています

もちろん、こんな場所には団体客がくるはずも無く、静謐な空気の中で長い時間を過ごすことができた。
イタリア国旗を掲げた一団が入って来た。勿論、話し声は無く、あくまでも整然とした入場だ。時々ガイド(?)らしき人が壁を指差し説明している。地方からの巡礼ツアーなのかも知れない。
『かいば桶の断片』は地下に安置されているのだが、その前に降りて行くと、全員で賛美歌の斉唱し始めた。あくまでも静かに…祈りながら。


隈なく絵画や彫刻を見、静かに椅子に腰をかけ瞑目する。

私達は去りがたい思いを振り切り、外に出た。


いっそ、もう一つヴァチカンの教会に行こうという話にまとまっていた。
サンピエトロに法王庁が移る前に法王庁があったという、ヴァチカン第二の教会であるサン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂だ。

近くには地下鉄A線S.Giovanniという駅もあるので、ついでにホテルでトイレを済ませてからテルミニ駅からラテラーノ大聖堂に行こうという事になった。部屋まで行く必要は無いので0階のロビーのトイレに入った。
男女の区別はしっかりと確認した。アメリカ人のオジサンがいたので間違いはない。
ところが個室に入ろうとした瞬間オジサンは『ここは男性用だ。女性用は別だ。』と私を咎めるではないか。
私は思わず『はぁ!』と声を荒げてしまった。
その声を聞いたオジサン『Oh Sorry!』だってやんの!
冗談じゃないっての!こんな還暦ジイサン捕まえて、男女の区別もわからんのかい?!
怒り心頭である。

妻に話したら大笑いされたが、笑ってすむ話でもない。まぁ思い起こせば、ヨーロッパに来て女性に間違われたのも一度や二度じゃない。妻と一緒の時にもそんな事があった。ピンク系のシャツはアメリカのオッサンだって着てるだろうに。私のどこがいけないの?

ヨーロッパでこれだからアメリカに行ったら無事で帰れるとも思えない。
アメリカに行くのは止すことに決めた。

さあ、気を取り直してサン・ジョバンニ・ラテラーノ大聖堂にむけ出発。

昨日の地下鉄は何も問題なくチケット購入できたが、今日はちょっと手間取った。
一回分のチケットを二枚買おうとしたのだが、お札を受け容れてくれない。
何度か繰り返しているうちに、ほらほら・・・怪しげな輩が近づいてくる。
正直言って、不潔そうな人だったので、それを避けて他の自販機売り場へ急ぐ。
あまり人の居ない自販機なので安心して購入しようとリトライするもお札は帰ってきてしまう。
ネクタイ締めて紳士然とした人ウロウロしていたので、尋ねたら、理由は直ぐに分かった。
メトロのチケットは購入額によって受容れ可能なコイン、紙幣が変わるのだ。
しかもその情報は自販機のディスプレイに画像として表示されていたのだ。
私達は文字と数字だけを見て購入しようとして画像などに目もくれていなかった。
迂闊だったなぁ・・・・・・
だから、やはりある程度の小銭は用意すべし、ということである。
そうか、なかなか良くできているな~と感心していると、その紳士が私の目の前で掌を広げた。
「教えたんだから、つり銭を頂戴!」ということらしい。
私は「No!」と応えて即刻その場を立ち去った。
小銭ぐらい与えても良かったかな~?と思わないでもなかったが、そういうビジネスモデルに慣れていない私はそんな反応しか出来なかった。
どうやら、ローマにはその種の事をメシの種にしている人達も少なくなさそうだ。
もちろん、Noと応えてトラブルになることは無いので心配する必要も無いが・・・・

地下鉄S.Giovanniで下車。
案内はよく分らず、人が押し寄せるわけでもないので少し迷う。
しかし、そんな時にもスマホは活躍します。
この城壁をくぐると大聖堂だ


この辺りは、ほとんど観光地化されておらず人が少ないのが嬉しい。
(何で、こんな良い場所に来ないんだろう?)
教会の近くには古代ローマ時代の城壁が無造作に横たわっている。
当たり前のように古代遺跡が存在し街の風景になっている
ラテラーノ大聖堂は外に施されている彫刻が素晴らしい。



勿論内部の装飾・彫刻も素晴らしい。
数ある内部の礼拝堂の一つでは賛美歌が歌われミサが行われていた。
美しい

圧倒されっぱなし



シスターまでもがカメラを構える

この教会は聖ペテロと聖パウロの頭部が収められているという。
ここでもカトリックの世界をしっかり時間をかけて十分に堪能して前の扉から外にでた。



前の扉から出るとこの広場に出ます

最終目的地であるフォロ・ロマーノに行く。

バスを諦め、フォロ・ロマーノまで歩く。前回来た時のように時間に余裕があればバス利用も楽しいものだが、今回のように短期滞在の場合には読めない時間がイライラさせる。
距離はあるが、教会横の広場を抜ければ一本道。遥かかなたにコロッセオが見えた。徐々に近づくコロッセオを見ながら、前回の思い出話をしながら歩けば足取りも軽い。
そして『まるで僕たちの旅も巡礼みたいだね。』

以前昼食に入ったPizzeriaも健在だ。
足はくたくたになっていたが、コロッセオを前にして気分は高揚していた。
ようやく近づいたコロッセオ。
手前にも遺跡はあります

一見すると東端の部分は幾筋かのひび割れがあり、いつ崩壊しても不思議じゃないくらいだ。
大丈夫かな?

事実、今回はかなり大規模に修復の為の足場が組まれていた。
心から人類共通の財産なのだと思う。
本当にイタリアは大変だ。文化財の維持・修復にどれほど予算を投入しているのだろう?
イタリアは世界で一番世界遺産の多い国だ。
その経済的負担を考えると、イタリア人の大きな誇りに感謝せざるを得ないし、少々の入場料・宿泊税アップ程度で日本人はゴタゴタ言ってはいけない。

それに比べたら日本では、文化財の維持にどれほどの予算を投じているのだろうか?
知ったら愕然とするんじゃないだろうか?
「鎌倉市」が「武家社会発祥の地」として世界遺産を目指しているらしいが、そのことを立証できるものが一つも存在しないとか。
頼朝が政治を行ったという幕府が何処にあったのかは分かっているのらしいが、そこが今では住宅密集地となって掘り起こすのは無理なのだそうだ。
じゃあ、最初からあきらめるべきだし、最初から申請する資格もないだろう。
観光客の増加の為に世界遺産を目指しているとしたら、それは全く本末転倒である。
何年、何十年かかってでも、その住宅地を掘り起こしていくんだ、というくらいの市民の気の永い熱意と行政の決意がないのなら早々とあきらめたほうが良いだろう。

大掛かりに足場が組まれている
西日に照らされたコロッセオを見上げながら隣のフォロ・ロマーノを目指す。
もう、時間が時間なので入場する気はないが、隣接する道路からでも十分その遺跡を眺めることができる。
道路の一カ所には看板が掲げられていた。
フォロ・ロマーノの発掘当時の工事写真、今の航空写真と古代の想像配置図。古代ローマ時代の想像イラストなどだ。
こういう画像を見ると、私のロマンは広がる一方だ。
古代はこんなだった?
フォロ・ロマーノでは発掘以前、家畜が飼われていたという話は有名
掘れば遺跡。地下鉄の深度はハンパない
どうやら地下鉄のC線ができるらしい。LINEA Cである。
それが『コロッセオ駅』で現在のB線と交わり、それに伴い駅の大規模リニューアルが計画されているようだ。
確かに『コロッセオ駅』は乗降客がやたら多い割に、駅の設備が貧弱である。
切符の自販機も2台しか無く、今日も長蛇の列を作っている。

道の両側に広がる遺跡を眺めながら古代ローマ人へのロマンを胸いっぱい満喫する。一部には未だに行われているだろう発掘調査の為の足場もある。ここは何度訪れても見飽きるということはない。

夕日に映えるフォロ・ロマーノ
やや疲れた表情


なんでイタリアの空はこんなに綺麗なんだ!?




夕陽に映えるフォロ・ロマーノを後にして『コロッセオ駅』に着いた頃には辺りはとっぷりと日は暮れていた。



さあ、今日は最後の晩餐だ。
予定していたレストランは日曜日にフラれてしまっていたので、いっそホテル近隣にオープンスペースを広げているレストランで良いか、という事にはなっていたが、それでも多少は選びたい。
4~5軒をメニューを見ながら歩いて一軒を決めた。店から魚貝類を調理する匂いがしたからだ。確かに他の店では、皆さんありきたりのパスタ、ピザ類しか食べていないのだ。

私の嗅覚は結果的に大正解だった。
しかし、「日本語を語る従業員が居て、日本語メニューがあるお店は絶対に不味い」という私の信念は脆くも崩れ去った。

7~8人の行列も出来ている。最後尾にいた男性に『並んでるの?』と尋ねたら『そう、ここは値段も良いからね。』とにやっとした。

何故だかローマに来ると、外国人であろうと気楽に声を掛けることができる。それが不思議だ。
「イタリアに住んでいるのか?」と訊かれたので
「まさか、ツーリストさ!」と言ったら、「俺たちもツーリストだよ」
訊けばスペインのバルセロナから来たと言う。親子三人連れだった。
私も大昔にバルセロナに行ったことがある、と言うと彼は嬉しそうに我が町自慢を始めた。
その時ガウディの「サグラダ・ファミリア」の事が頭に浮かばなかった事が悔まれる!

突然、近くで怒号が聞こえた。
イタリアではアフリカ系移民が観光地で物売りをしている。
最初は私も気味悪く思ったものだが、No!と言えばそれ以上しつこく付き纏う事は無いので危険を感じたことは無い。
その物売りが白人の男に突き飛ばされ、石畳に倒れたのだ。頭を打ったようでその音まで聴こえてきた。突き倒したのは近くのレストランの従業員らしい。何度も大きな罵声を浴びせ店のほうに戻っていった。恐らく店の客に物売りしたことに腹を立てたのだろう。
なにもそこまですることは無いだろうに・・・・・
黒人仲間は無論のこと、通りすがりの白人も大丈夫かと気遣っている。
倒れた男も立ち上がっていたが、事態は収まらない。
そのうち、救急車が来て、警察官も事情聴取にやってきた。
突き倒したイタリア人がその後どんな処分を受けたのかは不明である。
イタリアに限らず、移民の存在というものは何も無ければ存在自体を無視して済ますことができるが、いざ何かが起きれば、実は普段から抱えているフラストレーションが大きなトラブルを呼んでしまう・・・・・そんな難しい社会なのだと実感した。

事件を心配そうに見守っていた私たちをよそに、忙しく立ち回っていた日本語を話せるボーイが店の中からテーブルを運び出し無理やり席を作って私達を招いた。
日本語ボーイは以前、福岡と東京に居たことがあるという。道理で日本語が上手い筈だ。

マルゲリータのピザ、ムール貝のワイン蒸し、魚貝類のミックスグリルを注文したが、超が付くほど忙しい店は、一向に料理を運んで来ない。
ようやく料理が来たかと思えば、殆ど一斉に出てきた。



狭いテーブルはぎっしりだ。それを写真に収めようと妻が四苦八苦している姿に周囲から笑いが起きた。これを機に周辺の空気は徐々に和み始めた。
隣のテーブルの男性は、『私が写真を撮るから二人並んで!』と言ってくれ、カメラを構えたものの、カメラが全く上下逆さまなことに周囲はまた大笑い。そして、彼の撮ってくれた写真の角度が気に入らず「ちゃんと料理も写真に入るように」と妻が注文した時には、周囲は笑いの渦になっていた。
一番奥から食べ終わった遊び人風親父が出て行く際には『ここはインターナショナルだね。彼はロシア人、俺はイタリア人、お隣はオーストリアさ。君達は?』
『日本です。』と答えると『ワンダフル!インターナショナル!』と叫んで上機嫌で立ち去って行った。

最初、オーストラリアと聞き間違えた私たちに、隣のご夫人は「ノー!ノー!オーストリア!」
「妻は2年前にウィーンに行ったんですよ。私は行った事ないけど、ザルツブルグには行きたいと思っているんです。」
「ザルツブルグは綺麗ですよ!」
「そうですよね?私は子供の頃見たサウンド・オブ・ミュージックが大好きで・・・・」
「 サウンド・オブ・ミュージック?そうね!」
「私は子供のころ、ウィーン少年合唱団、知ってるでしょ?そこに入りたかったんです」
「音楽が好きなんだね?誰が好き?」
「シュトラウス!」
「Oh!!素晴らしい。ちなみにうちはザルツブルグから8Kmくらいの街さ」
「へぇー!それは素晴らしい!」
実はお隣のオーストリア人は母と息子のカップルだった。お母さんが案外若く、息子がいささかオッサンぽく、実に仲良く話しているので私はてっきり年の差婚なのかな?と思っていた。

「仲が良いんだね?」と言うと
「うん、仲良いよ」と事もなげに言う。
「信じられない!」
週末を利用して三日間のイタリア旅行なのだそうだ。
夜行列車で帰ると言う。
「近くて良いね。こちらは長時間の飛行機でくたくただよ」

妻はお二人の写真を、更に私を入れた写真を撮った。
「E-mailアドレスがあれば教えて下さい。送るから」とメモを渡すとお母さんがアドレスを書いて手渡してくれた。
渡したメモにメルアドをかいているお母さん
海外旅行にメモとペンは必須である


向こうの人のアルファベットはクセがある(本当は逆?)ので、息子が一文字一文字確認して読んでくれた。彼は不器用なくらい真面目である。
「写真を送ってくれたら、僕らの町の山の景色の写真を送り返すよ。あと8週間もすれば雪が降り始まるんだ。」
「ヘェー!こちらは年に2~3回しか降らないよ」

雪深い街で暮らし、わずかな夏の時間をイタリアで過ごし、空気の暖かさ、人の温かさに触れて帰っていくのだろう。 決して裕福とは思えない彼らの実直な生活を思いやった。

オーストリア母子と
空いていた奥のテーブルには今度はブラジル人女性二人組みが入ってきた。
特にそのうちの一人はおしゃべり好きで、オーストリアお母さんとひっきりなしに喋り始めた。
私はオーストリア息子と、EUについての話をしながら、料理を口に運んだ。

少し離れたテーブルからは混声合唱コーラスが聴こえてきた。
グループで食事に来たのだろう。
学生か社会人かは定かではないが、一人のテナーを中心に素晴らしい混声コーラスが繰り広げられている。
お酒の酔いも手伝ってか、皆顔を真っ赤にして歌っている。
コーラスが終わると、こちらの客は勿論のこと、通りを挟んだ向かいのレストラン客からも盛大な拍手。テナーがそれに応えてガッツポーズを決める。若いって良い!

料理はすこぶる美味しかった。
ムール貝も、マルゲリータも、魚介類のグリルも最高に美味かった。
私はマルゲリータなど日本では食べたことが無い。不味いに決まってるから。
この基本中の基本であるピッツァが美味しいということはきっと何でも美味しいのだろう。

それにバルセロナ男の言ってたとおり、値段が超安かったのも嬉しい話だ。
予定していたレストランはダメだったけど、こんな開放的な場所で色んな国の人達と会話できるのもローマを置いて他にはあるまい。
今日が日曜日で本当は大正解だったのだ。

明日は6時起きで日本に帰ると伝え席を立つと、オーストリアお母さんが
「その頃は私は寝てるわ。私が元気なうちにぜひオーストリアにいらっしゃい!」
オーストリア息子も
「山、山、山の世界だけど、とても綺麗なところなんだ。ぜひ来てくれ!」
と右手を差し出した。
私は息子と硬い握手をして「きっと、また会おう!」と言い残し、ホテルに帰った。

最後の晩餐は、プチ国際交流という大きなおまけまで付いた、最大の思い出となった。
ひょっとして次のヨーロッパ旅行はオーストリア行きになるのかなぁ?

明日は6時起床。
7時23分発のレオナルド・エクスプレスに乗ってFiumitino空港を目指し、日本に帰る・・・大きな大きなお土産を胸に抱いて。