実にトホホ・・・・である。
木曜日の夜から、My PCはどこか妙だったのだ。
インターネットは問題ないのだが、ローカル・ファイルへのアクセスがやたら遅い。
そのうちには、待てど暮らせど帰ってこない。
タスクマネージャーを立ち上げて、余計な処理を行っているかをチェックしてみた。
そうしたら、セキュリティ・プログラムの「マカフィー」がスキャンしている。
そのせいで、CPUには100%近くの負荷がかかり、Diskは回りっぱなし。
マカフィーのスキャンは木曜日の午前4時に設定しているので、こんな時間にスキャンしていること自体が異常だ。
終わらせてもマカフィーは終わらない。一心不乱である。
シャットダウンも何のその!
でも翌日は仕事だしなぁ、ということで、無理やりスイッチ長押しで電源を切り就寝。
金曜日に帰宅して電源を入れてみると、「Windowsを起動しています」まで出たのだが、その後再びブートして、今度はWindowsの起動までも来ない。
HPのユーティリティが自動的に立ち上がって来た。
そのプログラムでハードウェアをチェックすることにしたのだが、Diskのチェックにはやたらと時間がかかるのだ。
無理もない、1TBのハードディスクのスキャンテストなのだから・・・・・Diskが大きくなるのは便利なのだが、回転スピードは昔と大して変わってはいないのだから、こうした異常処理は容量に比例して時間を要する。
結局、その夜はスキャンテストで終わってしまった。
結果は「異常なし」。
だろうな・・・とは思っていたが、翌日はバンド練習なので、とにかく寝ることとした。
翌朝、電源を入れてみるとやはり、Windowに起動まで行かず、HPのユーティリティ(リカバリー・マネージャだったけ?)が立ち上がる。トホホ・・・・
しかし、そのメニューの中に「データのバックアップ」というのがあった。
私は小躍りした。
きっと、Windowsは起動しなくてもデータファイルは救ってくれるんじゃない?と思った訳である。
私は、それを選択してDVD8枚を費やしてファイルのバックアップを作った。
「さあ、これで安心だ!」と、バンド練習に出かけたのだ。
しかし、やはり気になっていた私は、練習後の飲み会に参加せず、家路を急いだ。
「データのバックアップが取れているんだから、あとは時間との格闘だけだね」とタカをくくっていたのだが、その期待は程なく裏切られた。
Diskを初期化してWindowsのリカバリー・ファイルからWindowsは簡単に復旧でき、くだんのバックアップファイルを戻してみると、「なに、これ?」状態ではないか!
特定のフォルダを勝手に作り、そこにデータを戻しておいたから、あとは自分で好きな場所に戻しなさいね、という感じだ。それはそれで良いとしても問題は中身である。
一言で言えば、「歯抜け」状態だ。
しかし、マメにバックアップしていない私が悪いことは確かだし、本体のDiskは初期化してしまったのだから諦めるしかない。
腹を括って、地道に行くしかない!
ソフトはインストールするとして、データファイルの復元元は
(1)くだんのバックアップファイル
(2)今年の春頃に外付けDiskにバックアップしたもの
(3)今年の夏に無料クライドサービス「Nドライブ」にコピーしたもの
以上、3つしかない。しかしバックアップされている対象が同じとは限らないから話は複雑になる。
これらを比較しながら、抜けがないか?どれが最新のものか?
少しずつ戻していくが、その確認に必要なソフトはその都度インストールをする。
コピーに時間が掛かる時には本を読んで気を紛らわす。
結局作業が一区切りついたのは今日の夕方。
最新の写真ファイル(先月のイタリア旅行のもの)はまだSDカードに残しておいたので助かった!
これが無くなっていると、恐らく妻からの風当たりは相当強かっただろうことは予想に難くない。
音楽ファイルは殆どスマホと同期が取れていたので、スマホのMicroSDから戻した。
楽譜ファイルに関して、一曲救えなかったが、PDFをメールでメンバーに送った時のものがGmail上に残っているので、まあ、それも良し!
後は、必要に応じて、必要なソフトを都度インストールしていけば良い。
今から思えば、Diskを外して他の部屋にあるPCにUSBで繋いげば、データファイルは全部救えたのだと思う。焦っていたとは言え、判断ミスは否めない。
しかし負け惜しみのようだが、PCの中の掃除ができたと考えようと思う。
聴く時間のあての無い、ラジオ番組の録音は全滅したけど、私が一日にそれらを聴く時間より、圧倒的に録音している時間が長いのだから、いつかは破綻していたのだ。そう思えば、諦める良いきっかけになったのだろう。
しかし、バックアップ問題は大きい問題だ。
私の仕事でも顧客がサーバーのデータを深夜バックアップしていたら、朝出社してもそのバックアップが終わってなかったという事例もあり、今後ますますデータファイルは大きくなりDiskもそれに応えるように容量は大きくなるだろうが、このバックアップ問題は深刻だ。
個人のPCでも、音楽・画像・映像のデータは大きくなる一方。
カメラの性能が上がるということは、すなわちファイルが大きくなる、ということを意味する。
などと言って自分の無用心さを棚に上げるつもりは無い。
やはり、いろいろな手段を使って、マメにバックアップはしないといけない。
PCは壊れる。実に簡単に壊れるモノだから。
それにしても、まだまだWindowsのUpdateは果てしなく動いている。
それが終わると、今日何度目の再起動になるのだろう・・・・?
2013年10月27日日曜日
2013年10月6日日曜日
オーストリアと私
音楽好きな人間同士は、時々「音楽の原点は何だ」ということを話題にする。
私の場合、それは「ウィーン少年合唱団」だと応えるだろう。
それは小学校4年生の時『美しき青くドナウ』という映画を観た時から突然始まった。
確か、ディズニー配給だったと思う。
美声のトニー少年が新しく入団する。
年上の少年ピーターはいつも主役級であるが、新たなトニー少年の出現が面白くない。
ピーターは美声のトニーへの嫉妬心から嫌がらせをする。
このピーター少年が変声期を迎える事からドラマは急展開。
声変わりは退団を意味するのだ。
しかし、トニー少年達の訴えもあり、ピーター少年は公演会で「美しく青きドナウ」でタクトを振ることになった。
そしてこの曲でエンディング…だったと思う。
私はドラマの展開にハラハラドキドキしながらも、同世代の少年達の美声にすっかり魅了されてしまった。
私もその頃は変声期前で、高い声には自信があったので、映画を観て家に帰った後も両親に「どうしたらウィーン少年合唱団に入れるの?」と質問し困らせたものだ。
少なくとも、私が最初に買って貰ったLPレコードはウィーン少年合唱団の作品だった。
その中にシュトラウス「美しく青きドナウ」が入っていたのは言うまでもない。
それ以外にもシューベルトの歌曲を合唱に編曲したものが数多く入っていた。
ドイツ語の歌詞は全く分からなかったが、メロディーは直ぐに覚え、私は彼らと一緒に何度となく歌っていた。
この次に強烈なインパクトを残したのは中学に入ってからの「サウンド・オブ・ミュージック」だった。
アルプスの山々がシネラマ・スクリーンいっぱいに広がり、それが徐々にズームしやがてはテーマ曲を高々と歌うジュリー・アンドリュースに迫る。
初めて見る美しいアルプスの山々、ホルンから始まる少し控え目なオーケストラの音、突然ジュリー・アンドリュースの伸びやかな声が重なる。このシーンだけで、私の心は鷲掴みにされていた。
もちろん、即刻LPレコードを買って何度も聴いた。英語の歌詞も多少は理解できるようになった私は、歌詞カードに首っ引きになりレコードに合わせ歌った。
また、舞台となったザルツブルクにも憧れて、いつかはきっとザルツブルクに行く、と思っていた。
つまり、私の音楽の深い所にオーストリアは関わっていたのだ。
しかしその後、私はグループサウンズやロックに夢中になり、いつしかそんなオーストリアへの夢を忘れてしまっていた。
しかし、そのオーストリアから今朝未明、メールが来た。
先日のイタリア旅行最終日にローマのレストランで隣り合ったオーストリア人母子の母親からだ。
私は彼らに写真を送ることを約束していたので、旅行から帰って数日後メールに写真を添付して送ったのだが、それに先立って彼等の住んでいるEbensee(エーベンゼー)の街を調べてみた。
それはまるで絵葉書のように美しい山々に囲まれた街であり観光地だったのだ。
が、それに混じって悲惨な画像が現れた。
第二次世界大戦の頃オーストリアがナチス・ドイツに併合され、Ebenseeに強制収容所が建設されたのだ。写真はその時の凄惨な姿を今に伝えていた。
私はその事実を初めて知ったことを伝え、日本にもその大戦では多くの悲惨な歴史を持っていることを伝えた。そして私達が平和な時代に知り合えた幸福を伝えた。
彼女からのメールは、一緒に話が出来たことの喜びと、写真を見ながらあの旅行のことを、そして我々と出会って話をしたことを二人で思い出している、と綿々と書かれてあった。
私の脳裏には母子が仲良くPCの画面を見ながら、思い出話をしている姿が浮かんできた。
あの二人にとっても素晴らしいイタリア旅行であったに違いない。
映画の「サウンド・オブ・ミュージック」は、一家が国境を越えてオーストリアを脱出する場面でエンディングとなっているが、実際のトラップ家は、渡米した後にも大変苦労をしている。
しかし、脱出していない多くのオーストリア人が、トラップ一家とは比較にならないほどの悲惨な体験をせざるを得なかった事を考えると、山々や湖の綺麗な景色も、単純に感動してはいられない気がしてくる。
Ebenseeでは既に木々が色づき始めているという。
彼女はこんな季節に山歩きをすることが一番好きなのだそうだ。
いつの日かザルツブルグを・・・という夢をもう一度復活させるのも本当に悪くない。
私の場合、それは「ウィーン少年合唱団」だと応えるだろう。
それは小学校4年生の時『美しき青くドナウ』という映画を観た時から突然始まった。
確か、ディズニー配給だったと思う。
美声のトニー少年が新しく入団する。
年上の少年ピーターはいつも主役級であるが、新たなトニー少年の出現が面白くない。
ピーターは美声のトニーへの嫉妬心から嫌がらせをする。
このピーター少年が変声期を迎える事からドラマは急展開。
声変わりは退団を意味するのだ。
しかし、トニー少年達の訴えもあり、ピーター少年は公演会で「美しく青きドナウ」でタクトを振ることになった。
そしてこの曲でエンディング…だったと思う。
私はドラマの展開にハラハラドキドキしながらも、同世代の少年達の美声にすっかり魅了されてしまった。
私もその頃は変声期前で、高い声には自信があったので、映画を観て家に帰った後も両親に「どうしたらウィーン少年合唱団に入れるの?」と質問し困らせたものだ。
少なくとも、私が最初に買って貰ったLPレコードはウィーン少年合唱団の作品だった。
その中にシュトラウス「美しく青きドナウ」が入っていたのは言うまでもない。
それ以外にもシューベルトの歌曲を合唱に編曲したものが数多く入っていた。
ドイツ語の歌詞は全く分からなかったが、メロディーは直ぐに覚え、私は彼らと一緒に何度となく歌っていた。
この次に強烈なインパクトを残したのは中学に入ってからの「サウンド・オブ・ミュージック」だった。
アルプスの山々がシネラマ・スクリーンいっぱいに広がり、それが徐々にズームしやがてはテーマ曲を高々と歌うジュリー・アンドリュースに迫る。
初めて見る美しいアルプスの山々、ホルンから始まる少し控え目なオーケストラの音、突然ジュリー・アンドリュースの伸びやかな声が重なる。このシーンだけで、私の心は鷲掴みにされていた。
もちろん、即刻LPレコードを買って何度も聴いた。英語の歌詞も多少は理解できるようになった私は、歌詞カードに首っ引きになりレコードに合わせ歌った。
また、舞台となったザルツブルクにも憧れて、いつかはきっとザルツブルクに行く、と思っていた。
つまり、私の音楽の深い所にオーストリアは関わっていたのだ。
しかしその後、私はグループサウンズやロックに夢中になり、いつしかそんなオーストリアへの夢を忘れてしまっていた。
しかし、そのオーストリアから今朝未明、メールが来た。
先日のイタリア旅行最終日にローマのレストランで隣り合ったオーストリア人母子の母親からだ。
私は彼らに写真を送ることを約束していたので、旅行から帰って数日後メールに写真を添付して送ったのだが、それに先立って彼等の住んでいるEbensee(エーベンゼー)の街を調べてみた。
それはまるで絵葉書のように美しい山々に囲まれた街であり観光地だったのだ。
が、それに混じって悲惨な画像が現れた。
第二次世界大戦の頃オーストリアがナチス・ドイツに併合され、Ebenseeに強制収容所が建設されたのだ。写真はその時の凄惨な姿を今に伝えていた。
私はその事実を初めて知ったことを伝え、日本にもその大戦では多くの悲惨な歴史を持っていることを伝えた。そして私達が平和な時代に知り合えた幸福を伝えた。
彼女からのメールは、一緒に話が出来たことの喜びと、写真を見ながらあの旅行のことを、そして我々と出会って話をしたことを二人で思い出している、と綿々と書かれてあった。
私の脳裏には母子が仲良くPCの画面を見ながら、思い出話をしている姿が浮かんできた。
あの二人にとっても素晴らしいイタリア旅行であったに違いない。
映画の「サウンド・オブ・ミュージック」は、一家が国境を越えてオーストリアを脱出する場面でエンディングとなっているが、実際のトラップ家は、渡米した後にも大変苦労をしている。
しかし、脱出していない多くのオーストリア人が、トラップ一家とは比較にならないほどの悲惨な体験をせざるを得なかった事を考えると、山々や湖の綺麗な景色も、単純に感動してはいられない気がしてくる。
Ebenseeでは既に木々が色づき始めているという。
彼女はこんな季節に山歩きをすることが一番好きなのだそうだ。
いつの日かザルツブルグを・・・という夢をもう一度復活させるのも本当に悪くない。
友からの便り
彼の名は「山田さん」。
しかし、彼の苗字が山田という訳ではない。
大学時代のサークル仲間のなかには、本名を連想させないニックネームを持つ友人が三人居た。
私が「ヒロ」と呼ばれることなど、即刻本名が連想できる、実にとるに足らないニックネームだ。
一人は、哲学専攻だったから「哲人」。これは比較的分かり易い。
二人目は、少しややこしい。
入部からほどない頃、サークル主催のコンサートの準備をしていた。
私達新入生が広報用の立て看板を作っている時、台に登って上の方を担当していた一人がいきなり叫んだ。
「ちょって、ガバリ取ってくれ!」
そこに居た全員の手が止まり、一瞬の沈黙が走った。
しかし、本人はその沈黙を全く感じていない。
「ガバリだってば、ガバリ!」
それ以来、彼はガバリと呼ばれた。
ガバリとは画鋲のことらしい。
「画張り」なのか「画針」なのかは今も不明だか、今も彼はガバリと呼ばれ続け、今も一緒にバンド活動をしている。
そして三人目が真打ち「山田さん」なのだ。
もちろん、立派な苗字は持っているのだが、或る先輩が彼を「山田さん」と命名したのだ。
「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する「山田さん」に似ているというのだ。もちろん妖怪ではなく人間だ。
確かにあの飄々とした雰囲気は似ていなくもない。
とにかく、それ以来、彼は先輩からも「さん付け」で呼ばれることになったのだ。
彼はバンドではドラムを担当していたが、我々が音楽活動に見切りを付けた後も、一緒に登山をしたり、卒業後も一緒にスキーに行ったりもした。
特にスキーの腕前は我々ビギナーとは全く次元の違うレベルであり、脱サラ後、或るスキー場ではあの大女優「吉永小百合」さんのエスコート役を務めたという逸話まで残っている。
その後も彼は自分の進むべき道を模索し、結局一人渡米した後はレストランで働き、現地で家庭を持った。
今はデンバーでアメリカ人として生きている。
水木しげるさんが「ゲゲゲの鬼太郎」の中で『典型的な日本人』として描かれた「山田さん」だったが、私達の「山田さん」はそれとは全く違う生き方を選んだのだ。
メールアドレスも住所も知ってはいたが、余りに生活圏が異なり会う機会も期待できない中、いつしかお互いに音信不通になってしまっていた。
それが、先日突然懐かしくなった私はGoogle+で彼の名前を検索(もちろん本名で)したのだ。
出てきた!出てきた!
しかも、そこには私が知っているデンバーにある彼の住所が記載されていた。
そうなると、余計に懐かしさはこみあげて来るものらしい。
メールを出して、待つこと二日。
彼が決してデジタル型人間ではないことを知っていた私は、返信にもう少し日数がかかることを覚悟していたので、昨日の未明にそれが届いていたことには大いに驚嘆した。
彼も、彼の家族も元気にやっているらしい。
何はともあれ、一安心だ。
この年齢になると、何でもないそんな便りがとても嬉しい。
再会を信じながら、今は”今度はどんな返信を書こうかな?”と考えている。
しかし、彼の苗字が山田という訳ではない。
大学時代のサークル仲間のなかには、本名を連想させないニックネームを持つ友人が三人居た。
私が「ヒロ」と呼ばれることなど、即刻本名が連想できる、実にとるに足らないニックネームだ。
一人は、哲学専攻だったから「哲人」。これは比較的分かり易い。
二人目は、少しややこしい。
入部からほどない頃、サークル主催のコンサートの準備をしていた。
私達新入生が広報用の立て看板を作っている時、台に登って上の方を担当していた一人がいきなり叫んだ。
「ちょって、ガバリ取ってくれ!」
そこに居た全員の手が止まり、一瞬の沈黙が走った。
しかし、本人はその沈黙を全く感じていない。
「ガバリだってば、ガバリ!」
それ以来、彼はガバリと呼ばれた。
ガバリとは画鋲のことらしい。
「画張り」なのか「画針」なのかは今も不明だか、今も彼はガバリと呼ばれ続け、今も一緒にバンド活動をしている。
そして三人目が真打ち「山田さん」なのだ。
もちろん、立派な苗字は持っているのだが、或る先輩が彼を「山田さん」と命名したのだ。
「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する「山田さん」に似ているというのだ。もちろん妖怪ではなく人間だ。
確かにあの飄々とした雰囲気は似ていなくもない。
とにかく、それ以来、彼は先輩からも「さん付け」で呼ばれることになったのだ。
彼はバンドではドラムを担当していたが、我々が音楽活動に見切りを付けた後も、一緒に登山をしたり、卒業後も一緒にスキーに行ったりもした。
特にスキーの腕前は我々ビギナーとは全く次元の違うレベルであり、脱サラ後、或るスキー場ではあの大女優「吉永小百合」さんのエスコート役を務めたという逸話まで残っている。
その後も彼は自分の進むべき道を模索し、結局一人渡米した後はレストランで働き、現地で家庭を持った。
今はデンバーでアメリカ人として生きている。
水木しげるさんが「ゲゲゲの鬼太郎」の中で『典型的な日本人』として描かれた「山田さん」だったが、私達の「山田さん」はそれとは全く違う生き方を選んだのだ。
メールアドレスも住所も知ってはいたが、余りに生活圏が異なり会う機会も期待できない中、いつしかお互いに音信不通になってしまっていた。
それが、先日突然懐かしくなった私はGoogle+で彼の名前を検索(もちろん本名で)したのだ。
出てきた!出てきた!
しかも、そこには私が知っているデンバーにある彼の住所が記載されていた。
そうなると、余計に懐かしさはこみあげて来るものらしい。
メールを出して、待つこと二日。
彼が決してデジタル型人間ではないことを知っていた私は、返信にもう少し日数がかかることを覚悟していたので、昨日の未明にそれが届いていたことには大いに驚嘆した。
彼も、彼の家族も元気にやっているらしい。
何はともあれ、一安心だ。
この年齢になると、何でもないそんな便りがとても嬉しい。
再会を信じながら、今は”今度はどんな返信を書こうかな?”と考えている。
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